soroは毎年8月になると遠山茂樹 今井成一 藤原 彰 共著「昭和史」を読むことにしています。この本の中には 67年前の8月6日以降のことが次のように記されています。
「極東において、アメリカが目指したものは、日本帝国主義の遺産をそっくり継承し、とくに中国の支配を独占的に確保することであった。ヤルタ協定で、ドイツ降伏三ヶ月後にソ連は対日参戦を約していたが、その期日が近づくとともにアメリカは焦慮しはじめた。アメリカはできうれば独力で日本を屈服させて、その単一支配を実現し、戦後の極東政策における優位を確立しようとした。」
「8月6日朝、B29によって原子爆弾は広島に投下された。『原子爆弾の投下は、第二次大戦最後の軍事行動であったというよりも、むしろ現に進行しているソ連との冷戦の最初の主要作戦の一つであった(ブラッケット「恐怖、戦争、爆弾」)』この一発の原子爆弾は、大部分が非戦闘員である広島市民数十万人を、一瞬のうちに殺傷した。大本営はこの真相を国民に知らせず『新型爆弾』と発表した。原爆だけでは日本の支配階級を降伏に踏みきらせるきっかけとはならなかった。最高戦争指導会議も閣議もこの問題について特別に開かれなかった。」
「原爆投下につづいて、8月8日の深夜ソ連は、連合軍の求めにより戦争の終了を促進するためとの理由で対日宣戦を布告し、翌未明からいっせいに満州に進入した。関東軍の戦線は一撃で分断された。ソ連の参戦は、その仲介に最後の希望を託していた日本政府に大きな衝撃をあたえた。そしてポツダム宣言受諾へ踏みきらせるきっかけとなった。ところが8月9日、最高戦争指導会議では、ポツダム宣言が要求している無条件降伏は問題とはならず、天皇の地位の保障を条件につけようとする外相の案と、自主的な武装解除、その他に日本の手による戦争犯罪人の処罰。連合軍の日本占領に対する制限などの条件をつけようとする軍の案とが対立した。この日長崎に2発目の原発が投下され、さらに十数万人の死傷者が生まれた。」
67年前の8月6日の広島への爆弾の投下は、アメリカ軍の「第二次大戦最後の軍事行動であったというよりも、むしろ現に進行しているソ連との冷戦の最初の主要作戦」だったのだし、67年前の今日(8月9日)の長崎への原子爆弾の投下は、アメリカ軍による、ソ連との冷戦の、二番目の軍事行動だったのです。