65年前の今日(8月9日)の未明、「ソ連軍」はヤルタ協定にしたがって、旧満州に侵攻しました。またアメリカ空軍は、「第二次世界大戦最後の軍事行動」というより、「現に進行しつつあるソ連との冷戦の最初の主要作戦として」(ブラッケット「恐怖・戦争・爆弾」) 広島への爆投下に続いて、65年前の今日の午前11時02分、長崎への原爆投下をしたのでした。
当時11歳(小川国民学校初等科5年生)だったsoroは、突然の「ソ連軍」侵攻と、アメリカ空軍の広島に続く長崎への原爆投下の報道に、大きなショックをうけ、「不滅の神国」といわれていた「大日本帝国」の敗戦と崩壊を予感し、心が動顛してしまったことを、今でもはっきりと覚えています。
今日、2010年8月9日付の「毎日JP」は、『被爆地・長崎は9日、65回目の「原爆の日」を迎えた。爆心地に近い長崎市松山町の平和公園では、長崎原爆犠牲者を慰霊する平和祈念式典が開かれ、被爆者や遺族ら約6000人が参列。原爆投下時刻の午前11時2分、全員で1分間黙とうし、鎮魂と平和への思いを新たにした。「長崎平和宣言」で田上富久・長崎市長は、今年5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で核軍縮交渉などの期限設定を核保有国が退けたことを強く批判。「核保有国の指導者の皆さん、核兵器のない世界への努力を踏みにじらないでください」と世界に訴えた。…また、被爆65年にして存在が明確になった「核密約」に触れ、「非核三原則を形骸化してきた」として過去の政府の対応に強い不信感を表明。NPT未加盟の核保有国インドとの原子力協定交渉も「NPT体制を空洞化させ、容認できない」と批判した。…その上で日本政府に▽非核三原則法制化への着手▽「核の傘」に頼らない安全保障を実現するための「北東アジア非核兵器地帯」構想の提案を求め、被爆国として国際社会で独自のリーダーシップを発揮するよう促した。』と報じていました。
ところで8月6日の広島平和記念式典で、広島市の秋葉市長が、日本政府に「核の傘」からの離脱を求めたのに対して、式典直後の記者会見で「核抑止力はわが国にとって引き続き必要である」と発言し、つよい批判と抗議を受けている菅首相は、今日の田上長崎市長の「核の傘に頼らない安全保障を」という発言に対しても、式典直後の記者会見で「核抑止力は必要」と語っていたことを、
soroは今夜のNHKテレビニュースで知りました。
今は昔soroは、新制中学校での「あたらしい憲法のはなし」というテキストを使っての憲法学習で、日本国憲法前文の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という「国際平和主義」を深い感動をもって学びました。そんなsoroは、「われらの安全と生存」を「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して」保持するのではなく、「核抑止力」によって保持しようと考えている菅首相の、日本国憲法第99条に違反する発言に、いま、とてもつよい憤りを覚えているのです。